所謂「もの」と所謂「こと」

先週の土日に観音崎で開かれたSEA-SPINの世話人会での議論から,考えたことを少し書いてみます.SEA-SPINというのは,ソフトウェアのプロセスについて関心ある人の集まりです.さて,プロセスの話をしていて,ふと横をみるとプロダクトが伴走してることが多いと感じます.典型的には,「プロセスが良いとプロダクトは良くなるのか?」といった類の質問として現れていると思います.しかし,この問いそのもは間違っているだろうと思います.

ソフトウェアにおいて,プロセスを考えるというのは,一般のものつくりにおけるプロセスとは分けて考えないといけないだろうと思います.ものつくりにおけるプロセスというのは,偏差の制御ですから,その制御を行うための手順を如何に定めるかという点にあります.一方で,ソフトウェアは一品生産ですから,そもそも基準値を引くことが困難であったり,通常は不可能ということになります.もちろん,むりやり基準を作ることもできます.例えば,コード1行を一つのものと考えると,一時間に何個生産できるという基準値を作ることができます.しかし,それが無意味であることは,プログラムを書いている人なら良く分かるだろうと思います.

かくのごとく,ソフトウェアを作るということは,一般の製造とは異なる行為であるにも関わらず,多くのソフトウェアのプロセスの議論は,成功した製造業での流儀を用いようとしています.その帰結はあきらかなように,私には思えます.我々に必要なのは,安易な敷衍ではなく,いくばくかの「合理性」だろうと思います.

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その例を少し考えてみます.通常のプロセスの意味で,プロセスの規定を担保するのは人間になります.それは,例えば,ソフトウェアの設計品質を,プロセスで規定しようとすると,最終的にはレビューを必要とし,誰もそのレビューが妥当であることを機械的に評価することはできません.通常のプロセスの意味では袋小路に入ります.レビューが妥当かどうかをレビューするといった具合に.大事なのは,レビューをすることではなくて,ある文脈のなかで,そのレビューが妥当であることを合理的に説明できるときに限られます.そうして,初めて,円環を閉じることができます.

プロダクトについては次が参考になります.Lazzaratoさんの無形労働の議論は,ソフトウェアの作るものは有形物としてではなく,社会に働きかける無形のものとして捉えるべき,としています.そこでは,ソフトウェアが単にbit列だから見えないということではなくて,一種の完成系としては存在し得ないということを示しています.

以上の議論から,(製造メタファに由来する)プロセスの議論もプロダクトとしてのソフトウェアの議論も,そもそもがソフトウェア(作り)の本質から遠いところにあるということが分かります.

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いま,必要なのは単純なプロセス/プロダクトのdichotomyではないだろうと思います.実践的には,よりインスタンスとしてのプロセスに寄り添うことですし,メタには,「合理的なプロセス思考」というものが必要なのだろうと思います.後者に関して云えば,よく成功事例(best practice)の名のもとにインスタンスの共通項を探そうとしますが,それはそこに共通項があるという前提に立てるときにのみ成功します.ソフトウェアプロセスに関しては,多くの場合は,単なる物語の集合としてしか存在できず,物語としては面白くても,それが有益である保証は全くありません.「合理的なプロセス思考」というのは,共通項を探すと云うことではなくて,あるプロセスの構成要素の意味を合理的に考えると云うことです.また,そうすることでのみ,プロセスの議論に意味があるのだろうと思います.

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さて,今回のタイトルは,(学生時代に私も講義を受けた)廣松渉さんの著作「もの・こと・ことば」から持ってきました.この単行本の帯は,「物的世界像から事的世界観へ!」となっています.このテーゼは廣松さんの著作のあちこちで使われています(その他の本のサブタイトルにも).今回の内容に即して云うと,物象化的錯視状態にあるものとしてのプロセスを解放する!ということになるでしょうか.

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