トゥールミン

埴谷雄高さんの初期の詩集(アフォリズム集)に,「不合理ゆえに我信ず」があります.大変美しい内容です.ここでは有名な「自同律の不快」ということが形を変えていろいろ展開されています.自同律というのは,一般には同一律とよばれる論理学の基本要素で,例えば,「a は a である」というのが相当します.これは,代表的なトートロジーなので,恒に真なのですが,このことが埴谷さんは,不快であるという.

この不快は少し考えてみると,腑に落ちます.例えば,aになにか具体的なものをいれてみます.「私は私である」というのは,やはり落ち着かない.私というものの同一性を一般に疑うことはないけれども,それに対する上記の言明は,特別な意味を持ちます.普通に日常でつかう文ではありません.例えば,回りの人から批判されたときのつぶやき:わたしはわたし.このとき,少し注釈をつけるとすると,例えば次のような文になります.「わたしは,(誰になんといわれようと私が思っているようにいきていく)わたしである」.賓辞(述語)は常に限定作用があるので,普通の発話文では使うことはないということです.

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さて,CHI(Computer Human Interaction)の世界やセーフティケースの記述で参照されることの多いトゥールミンモデルは,Stephen E. Toulmin さんのモデルということです.そのモデルが記述されている The Uses of Argument の翻訳が最近出ました.邦題は,「議論の技法(東京図書)」で,奥付をみると2011年5月25日と,これを書いている23日より未来の日付になっています.ちなみに,原著は,1958年に発刊で私が生まれる50年以上前に書かれています.

トゥールミンモデルは以下のように表現されます.

込み入っているように見えますが,単純です.まず,このモデルで表現したいのは,論証(立証)であり,それは,データ(根拠)からある主張を導き出すことです.論証は上図の白い複数の箱から構成されます.一つには,「保証」であり,そこでは「裏付け」が必要となります.世の中に無条件でいえることはなく,そのため主張には,何らかの「様相限定子」が付くことになります.もう一つは,「反駁」としての論証範囲に対する限定です.

単に論証(立証)と一言で片付けている部分が整理されています.しかし,トゥールミンは,このモデルを説明したかったわけではありません.同時期に活躍したカルナップたちの論理実証主義に対する*不快*が云いたかったことで,このモデルは説明のために導入しているに過ぎません.論理(実証主義者たち)は自分たちで解けるきわめて狭い範囲の対象だけを精緻化しており,結果的に日常の論理と乖離しているということです.

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さて,最近のトゥールミンモデルの受容のされかたは,前述のとおり様々ですが,1つにはセーフティケースへの利用を考えている人達がいます.セーフティケースでは,安全要求という主張があり,それを証拠を用いて,論証(立証)する.単純には,これで1つのセーフティケースを構成します.先のトゥールミンモデルでは,証拠にあたる部分がデータで,保証や裏付けが論拠にあたります.反駁の部分は,例えばMISRA-SAですと,エンベロープとみなすこともできるだろうと思います.様相限定子の部分が少し都合が悪いのですが,これはどこまで技術的に正直になれるかということで決まるのだろうと思います.最後の主張は,そのまま安全要求としての要求になります.

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全ての主張は偽りである.あるものをその同一のものとして何か他のものから表白するのは正しいことではない (不合理ゆえに我信ず p.5)

この言葉に全面的に同意します.しかし,我々プログラマは,同一性を疑ったりしません.それをいちいち疑っていては,条件文が書けなくなってしまう.それに,我々の対象は,機械に過ぎないのです.一方で,日常生活において,無批判に同一性を受容していては,機械的な人間でしかない.

セーフティケースに戻ると,最初の段階(基本セーフティケース)では,まさに人間の世界を機械のことばに変換する作業になります.このとき,いくばくかの注意が必要になるのはもちろんで,それはどのようなモデルや表記を用いても,安心して良いということにはならないだろうと思います.

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